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ストーリー

Prologue

1970年に加太で生まれ、野山に囲まれて育ちました。
小学校から、アマタの川で釣りもよくしていました。
上流でマス養殖所があって、それが放流されると雨で流れてきたもので、マス釣りと、そしてヤスで突いたり、鮎もいましたね。それらを捕って焼いて食っていました。とにかく美味しかった。弟もよく一緒に行き、あるとき俺がかけた釣り竿の針が弟に引っかかって、目の上にミミズがぶら下がって。今では笑い話です。秋になったら、山ではアケビやニベっていう真ん丸な木の実を採りに行って食べてました。
中学校には汽車で通い、駅まで3キロくらい自転車で毎日行ってました。 地元はやはり、自分の大切な原体験です。

Change

高校は、最初に行ったところの校風が合わなくて、やめざるを得ない経験をしました。

小さな頃から、「お前は跡継ぎや」と近所でも社員からも皆からいわれてきましたし、中学行っても、高校行っても、実家の仕事を手伝ってきたわけです。だから、やっぱり自分は、家業を継ぐ、継がねばという中で、「学」を付けねばって思っていたのかもしれません。

最初の高校を退学後、9月から受験勉強をして、新しく入りなおしました。この時は、周りの同級生が高校時代を楽しんでいた中で、わき目もふらずに必死に勉強をしました。津まで塾へ通って、みっちり問題集を解きまくり、結果、津高校へ合格しました。

入ったばかりは自分が成績よかったのですが、同級生はやっぱり頭が良かった。大学を目指し、浪人するために京都へ。京都と実家とを往復する毎日。神奈川の厚木にある椎名誠の母校の大学を友人から紹介され、行ってみたいとなり、そこの建築学科に受かりました。嬉しかったけれど、何か自分のなかで何か違うなという気持ちもあって、その先の目標設計も悩みながら、留年に留年を繰り返し、もうやめようと最終的には中退となりました。

悩みながらの大学時代の中で、下の弟である丈哉の語学留学に合わせて、自分も上の弟である成哉が留学しているアメリカへ行きました。そこでバス釣りにはまった。大きな自然に囲まれた、こんな素晴らしい趣味(スポーツ)があるのだと感銘を受けました。このアメリカでの経験は大きく、その後どっぷりバス釣りにはまり、帰国してからも津久井湖や芦ノ湖によく行き、車の免許を取ったあとは霞ケ浦、北浦や富士五湖なんかにもたくさん行きました。

神奈川県相模原市で6年間暮らし、本当に色々な人と出会い、様々な経験をしました。大学は結局やめてしまいましたが、この時の出会いや経験も、今の自分の糧となっています。

Challenge

平成9年、江間忠ウッドベース(プレカット)が愛知県蒲郡に開業されたのを機に、これからはプレカットの時代が必ず来ると親父(会長)に言われ、修行ができる算段をつけてもらいました。28歳くらいから1年間、ビジネスホテル住まいをしながらプレカット工場で修行。ここでの経験は特に、三栄林産での仕事に直結したものとなり、今でもお付き合いさせていただいています。仕事が面白くなってきたところでしたが、実家が忙しいということで「早く帰って来い」と、平成10年に実家へ戻りました。

会社に入ったのが平成10年。まずは木材の配達から。それから、プレカットの営業をしました。亀山・鈴鹿の大工さんをしらみつぶしに調べ、これからはプレカットの時代だ!と仕事をつくりだしてきました。当時は、杉、桧、松の製材をよくやっていましたが、私の仕事は機械を扱うというより、営業の仕事が多かったです。大工さんとは、とにかく細かい打ち合わせ。納まりやこだわりは大工さんによって違い、そういった細かい木材の対応をよくしていました。和室の細かい納まり(鴨居、敷居、欄間など)を親方達から聞き、プレカット工場に無理を言ってつくってもらっていたのもとても勉強になりました。今の仕事に活かされていて、感謝しています。

また当時は、地域の人ばかりがたくさん三栄林産で働いていました。今も製材担当として働いてくれている牧森氏のお父さんも、製材の番頭をしてくれていましたね。家族経営の典型的で、今となっては懐かしい風景であり、そしてまた再現したい風景でもあります。

ある年、森林組合の組合長などをしていた祖父(創業者)と共に、クヌギの森を創ろうという話になり、クヌギの苗を一緒に植えました。実家は山林所有者なので、土手が崩れないようにという配慮です。クヌギは成長も早いし、シイタケの木にもなるし、クワガタムシも来るだろうしって、植えたのを覚えています。もう20年以上前のことになりますが(2021年現在)、今でもその頃を時々思い出します。かぶとの森テラス(キャンプ場)の手前にある場所で、亡くなった祖父の想いもありますが、またここで子供の笑顔が増えたらと願っています。

Accident

そうこうしているうちに、平成14年頃の夏、工場火災が起こりました。

ちょうど、自宅の上棟時に足の怪我をして、入院している時でした。お盆休みで実家に帰省したあと、病院に戻った途端、電話がなりました。「会社が火事や」と。すぐに戻りましたが、会社は大変なことになっていました。あそこから今まで復興できたのは、皆が一丸となって頑張ってきたからだと、自信を持って言えます。感謝しています。

自宅の建築も止まり、入居した時には冬になり、その頃には長男も生まれていました。苦労もありましたが、夢に出てくるような家で、木をふんだんに使った家でした。

この家を建てることを皮切りに、建築事業を始めよう!ということでした。三栄林産として建築知識もない中で、当時のお客様である大工さんに請け負ってもらい、家を建てるという事業を始めました。

そのあとに、今は建築部門を担当している上の弟、成哉(設計士)が戻り、下の弟の丈哉も戻ってきて、建築、家具、雑貨事業を本格的に開始しました。そのころから、セルローズファイバー断熱の工事も始めました。

Reorganization

このようにこれまで色々ありましたが、いま製材業というものと改めて向き合う機会がきて、山を見て、山を育て、原木を仕入れて、と川上から関わるようになりました。こんな歳になってから、バーカーとかツインバンドソーとか、高校生のアルバイトからやっていたことを中心にしつつも、自分はこの製材を軸にやっていかねばならない、木をみていかなければならないと、改めて思うようになりました。高校出てすぐ木材業で働いてた同級生たちともまた会って、学びも多いです。

木材の繋がりは近隣や県内だけでなく、全国にも広がっていきました。平成22年頃から木青連(日本木材青壮年団体連合会)に加入し、全国各地の木材関係者とたくさん出会い、木材とひとことで言っても本当に様々な世界を見せてもらいました。大きい小さいといった規模、地域性等をはじめとした木材だけでなく人や経営の違いも知った。ビジネスの姿勢とか営業マインドも学びました。 全国大会を三重で開催することになった平成23年頃、それまでは全国で仲間づくりを中心に参加していたけれど、総務委員長をすることになり、全国組織にも出向しました。 三重県の木材関係の仲間たちと連携し、企画したり会議も本当にたくさんして、それはもう一生懸命準備し、大会は成功を収めることができました。 打ち上げのビールの味と、皆の笑顔は、心に残っています。

木青連活動の中で、色々な形・考え方の製材所、様々な規模の製材所があることを体感として知り、全国の木材関係の仲間たちと出逢ってきて、自分の「立ち位置」が見えてきました。 今までの繋がりを大切に、地元の亀山で腰を据え、木材の業界と向き合っていきたいと思います。加太という場所が何だったのか、地域と向き合うということは何なのか、この地域の為に、役に立つことができればと決意を新たにしています。

単に子供時代のノスタルジーを再現しようというのでなく、今の時代にあった“地域”の在り方を希求し、「百年かぶとの森構想」を実現していきたいと思います。

祖父の時代から引き継いだものを、次の世代そのまた次の世代へ繋いでいけるよう、事業の発展、地域の方々の豊かな“ライフスタイル”づくりへと邁進してまいりますので、応援していただけましたら幸いです。 三栄林産グループをどうぞよろしくお願いいたします。

三栄林産株式会社 代表取締役
地域デザイン環境事業部 統括
坂英哉